韓国映画『映画は映画だ』
初めての映画評となるが、今回このような形で書くにあたってまずは自分が何をどのように書こうとしているかを示す必要があると思う。
映画批評というのはそもそも感想という形式とは厳密に区別される。
伊藤計劃の言葉を借りるとするならば、映画批評とは『その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ』ということになる。
つまりより深く掘り下げるとするならば、批評とは新たな視点によって未知の回路を見出すことなのだ。それは例えば「面白かった」や「つまらなかった」などそういう主観的な感想形式とはことを別にする。
夜中に何か食べたくなってコンビニに外出したとする。そこは行きつけの店舗だ。
当然、昨日と同じ道を通るだろう。これまでと同じように、知っている道を――それは最短のルートなのかもしれないし、安全なルートなのかもしれない――何の刺激も発見もなくただ別の物事でも考えながら歩いてゆくだろう。
毎日の繰り返し。日常の繰り返し。
映画もそのように見るのだろうか。一つの、いつものルートから、見慣れた光景、風景をただ見ながらラストシーンという目的地までたどり着こうとするのだろうか。
ここでの比喩をより精密なものにするために、映画の再視聴という視点を取ろう。
同じ映画をもう一度観たりすることに果たして意味はあるのだろうか。そういうことを考えたことはあるだろうか。
それは純粋に娯楽としての、脳に刺激を与えるための食事と価値を同じにする話ではない。
同じものを何度も見ることに意義はあるのか、これはそういう話だ。
ここで断言しておくならば、それは”ある”のである。
比喩に戻る。
たまたま、それは気分的なものだったのかもしれないし意図的だったかもしれない。
その日はコンビニに別のルートを使って向かうことにした。
そこにはいつも見ていた光景とはまったく違った光景が広がっている。
そうすると、その光景や風景には新鮮さが宿る。
それは新しい本を買って読むときの期待感や、新しいゲームを買ってプレイするときの高揚感に似ていた――。
これが批評の価値であり意味である。
面白い読み物として、未知のものとして、既知のものに取り掛かれる。あるいは未知の視点を、提示され、自己の中に取り込み、獲得する。
コンビニ=映画という物自体に、どのように向かおうとするのか、という話だ。
そこには複数の道が用意されている。その数は有限ではなく、無限。
だから正しい見方だとか、正解は一つだけだとか、そういうことはありえない。
その道の、視点の、すなわち要素の集合体が作品を構成するのであり、それは作り手が自覚していないものまで含まれるだろう。
感覚的に作られた作品が、要素的合理性を兼ね備えているということが有り得てしまう。それができる人を天才と呼ぶのかもしれない。再現性なんて持たない方が、あるいは感覚的にそれを再現できてしまうことが、才能と呼ばれるものなのかもしれない。
けれど、観客とはその才能の視点に立つことは原理的に叶わない。才能を味わうことしかできないのだ。
作ることと、見ることにはそれだけの距離がある。
だから、凡人として、観客として、再現性を持った要素の、解体という立場から、作品に触れてみよう――これが、一つ目の意図である。
また、これとは別の意図がもう一つ存在する。
それは映画を観ていない人に向けて、映画に興味を持ってもらおうとする意図だ。
ふざけているのか、と思う人もいるかもしれない。なぜならば、それは上記に記述した批評形式と性質上相容れないものだからだ。
すなわち、このような意図にはネタバレの禁止が伴うのだ。映画を分析し批評しようとする中で、映画の内容を語らないということはできない。そこには必ずネタ=内容が含まれる。けれどもし、そのすべては避けられないにしても、読者が興味を削がれない程度にネタバレに抑え、かつ批評を成立させることができるとするならば、そんなことが可能であるならば、今回はそれをやってみたいと思う。
長々と話したが、それが本ブログの意図であり、目的である。
- 内容(あらすじ)
- 役者
内容(あらすじ)
スタは、アクションシーンの撮影で相手に怪我を負わしてしまう、まるでヤクザのような映画俳優。そんなスタは、本物のヤクザにもサインを求められる。ヤクザ相手にも物怖じしないスタはそこでもひと悶着を起こす。
現在撮影中の新作映画はスタのせいで相手の俳優が大怪我をして降板し、スタは窮地に陥り、自分で代役を見つける羽目になる。だが、誰も引き受けてはくれない。そんなときに思い出したのが、先日知り合った、スタのファンで俳優志望だったというヤクザ、ガンペ。
ガンペはスタの提案を受けるが、アクションシーンは”本気で”という条件を付ける。ヤクザのような俳優と俳優を夢見ていたヤクザの、本気の映画撮影が始まる。
役者
映画における役者の役割とは何だろうか。役者とは観客にどのような効用を持つだろうか。
そのような視点で考える。
映画には漫画や小説と違って捲るべき“ページ“が存在しない。物語を進ませるのは、自分ではなく、映画そのものだ。ひとりでにコマが勝手に進行していく。
では映画において、何が観客をその座席に留まらせるのか。勝手に進行していく物語に対して、観客は何に導かれるのか。
ここでもういきなり断じてしまうのならば、それは役者が負うのである。
たとえば、それは漫画や小説、あるいはアニメーションにおいては”物語の謎”という要素がそれを負うことがもう少し多くなってくるだろう。だが、映画は違う。
圧倒的に人間に惹き付けられるのだ。生身の、自分たちと同じ、空間を分かたない存在に、我々は魅了されるのだ。その人間こそが最大の謎であり、観客を座席に留まらせる最も大きな要素なのだ。
それは役者の顔や体格といった存在感というべきものがすべてを負う。映画においては人物の内面など全く関係がない。なぜなら、それは語られることがないから。
すべてを表現するのは、顔からにじみ出た表情であり、口から出た台詞である。
露出が、少ない。
ゆえに、もっと知りたいと思わされる。
役者がつまらなければ映画もつまらないという事実は確定しているように思える。このことを感覚的に理解できているものは、果たしてどれだけいるだろうか。
自分が名作だと思っている実写映画が、その主演を別の役者に変えさえすれば、それがたちまち駄作へと落ちぶれる可能性の恐怖を知っている者はどれだけいるだろうか。
岩井俊二のラブレターという映画がある。恋愛モノの映画なのだが、主演は中山美穂が演じている。
恋愛映画において、たとえばヒロインが魅力的でないとするならば、それは果たして完成度の高い作品と言えるだろうか。
おそらく、前提としてそのジャンルが成り立たない。
その観点からいえば、中山美穂は完璧だった。彼女以外の配役はありえない。もし彼女以外がヒロインを演じるのならば、それはもはや別の作品に落ちぶれている。
作品の全体的な空気感とも呼べるべきものを構成するのが、一人の役者に委ねられているのだ。もちろん、他の助演もその構成に影響を与えるのだろう。ただ、この恋愛映画においては、中山美穂演じるヒロインがすべてを左右していたといっていい。
ヒロインの魅力という一つの要素だけで、一つの作品の傑作/駄作が決まってしまうのだ。
それは恐ろしい話かもしれない。
どれだけ綿密な構成や設定を取ったとしても、それが役者次第でゴミにも成り得てしまう。
でも逆にいえば、構成や設定が単純でもあっても、役者に力があれば、それは傑作となりうるのだ。
そういう点でいえば、本作の『映画は映画だ』は完全にその水準を満たしている。いや、突き抜けている。
ソ・ジソブという役者が負ったものは、あまりにもデカすぎる。こいつをただ眺めているだけで、なにもかもが面白い。
ならば、語っていこう。
本物のヤクザを演じるソ・ジソブという役者が作り出す空気について。
記号としての男が持つ物語的効用とは何だろうか。
こと韓国映画やバイオレンス映画において、その最たるものの一つとして暴力性による”緊張感”があると思われる。
男が映るだけで、その場に緊張感が走る。なぜなら危険だから。闘争の予感を感じさせるから。
韓国映画に対置されるのは、韓国ドラマだと思われる。
ネイルのように綺麗なヒロインに童話の王子様のような男との綺麗な恋物語が描かれる。そこには男女の恋愛的な緊張感というものしか存在しない。
一方で韓国映画には、綺麗な要素が存在しない。男の容姿は汚らしく、造形は整っていても、綺麗とは言い難い。どこまでも暴力的で、退廃的で、野蛮な狂犬である。その男の暴力性に晒される存在として、女が用意される。
その暴力性の象徴としてヤクザがいる。それは男という記号よりもなお暴力に近い観念である。
それを演じてみせたソ・ジソブ。
ヤクザよりもヤクザらしい、もはやそれは観念のとしてのヤクザである。格好いいのである。
彼がカメラに写ればひとたび緊張感が走る。
そう、この映画の最もな強みは、一人の役者を写すだけで、サスペンス的状況と同レベルの緊張感を観客に与えることである。
ソ・ジソブを写すだけで、立ち姿や顔のクローズアップをするだけで、一個のジャンル規模の構造的効用を得るのである。
同じく、もう一人の主人公がいる。映画俳優スタを演じるカン・ジファン。
ヤクザ相手にも物怖じしない、通常の物語であるならば悪役にでもなってしまいそうなキャラ造形の人物だが、ゾ・ジソブの持つ空気の前には小者にまで落ちてしまう。
それほどの強度を持った人物でも、いやそれほどの強度を持つ人物だからこそ、ソ・ジソブ演じるガンペの暴力性がより引き立てられるのだ。
男にはもう一つの効用があると思われる。
主演二人の仲は最悪で、二人のシーンがあれば、常に緊張感が走っている。息が詰まる。そこに緩和剤として投入されるのが、監督役のコン・チャンソクである。
小太りで、臆病、落ち着きがなく空気も読めない、それでいて陽気な人物だ。
映画において緊張感は大事だが、その中でも緩急が大事になってくるのは誰もが知っていることだろう。何事も箸休めが必要なのだ。
ソ・ジソブという役者が持つ緊張感は、それはもはや個人では操作不可能な領域にまで達している。
だからこそ、間抜けな監督役を投入することで、その緊張感を相殺させる。それでも相殺し切ることは不可能だが、それでも幾分かはマシになる。
この役割は女には不可能だと思われる。
女は確かに緩和剤としての機能を持っている。だが、その安心感はもはや男とは別の領域のものなのであり、真っ向から緊張感を相殺するのではなく、それこそサスペンス映画に韓国ドラマの恋愛的な文脈を入れ組むような滑稽さがある。
そこではもはや男の牙は抜かれている。
だが、この物語においても二人の女が登場する。それはそれぞれヤクザと役者それぞれの恋人役を務める女優だ。
緊張感という側面からして、必要のないキャラクターだと思われる。
では、何において必要だったのか。
この場合の女という記号の役割とは何だったのか。それについて考える。
この物語においては、男の退廃と成功が交差して描かれる。
映画俳優のスタは暴力沙汰によって落ちぶれていく様を、ヤクザのガンペは俳優となることで成功していく様を。
その構図を描くことがこの映画には必要だったのだ。
ではどのようにしてその構図を描いたか。
それが女である。
この映画において、男の成功と退廃は、女の獲得と喪失によって描かれる。
そのために、女を登場させる必要があったのだ。だが、女が物語の本筋に関わることはない。男の変化を示す道具として使われる。
根本にはやはり男だけが居る。そして、その男の隣には常に死が転がっている。
そこがまさしく韓国映画的なのである。
我々は男に魅せられているのである。数時間の間、女を見続けることは不可能であると思われる。女はその前提として価値のある存在だが、継続して相手を魅了する能力は持たない、ひどく瞬間的な存在なのだ。
だが、男は違う。その背中をもってして、数時間でも数十時間でもいや、何日、何年に掛けて人間を魅了し続けることができる。その魅力は一体どこから来ているのだろう。
それはやはり暴力性――すなわち死ということになる。
人間は不安に耐えられない一方で、それよりもはるかに安心に耐えられない。
結局は、不安に、争いに、死に、人は向かうように出来ている。向かうということは、惹かれているということである。
その指向性を存在として女は持たないのである。女が主演のアクション映画は売れないと言われている。アクション映画に限らずそうなのかもしれない。
そして、この死に向かうという暴力性の指向性において、ソ・ジソブは韓国俳優の中でも最たるものを持っていると思われる。
それはあの『キム・ユンソク』に匹敵するレベルのものを持っている。
この物語もある結末に向かって動いていく。
映画という題材を使ったとしても、たとえその構成上それが匂わないのだとして、ソ・ジソブという存在がそれを避けられないものとして示してしまう。
その結末が何かはここでは示さない。
それは自分の目で確かめるものであるべきだし、この映画の本質は結末以外にも常に役者を持って散りばめられている。
こうも役者という視点にこだわってのは、この映画が役者という題材を扱った作品だからであり、この視点がまた物語に多重に還元されてまた新たな視点が開かれることになる。
そういう意味でも、この映画評を見てから作品を観ることにも意義があると思われる。長々と書いたが、とにかくこのブログの意図は本作を観て欲しいということである。もし何か響くものがあれば、是非とも視聴して欲しい。